外車ちゃん

昔書いたやつもあるよ!

何もできない存在もしない

神聖かまってちゃんの「イマドキの子」という曲が好きだ。

珍しくキャッチーな歌詞だけれど、それこそ"イマドキ"の子も聴いているのだろうか。
 
"東京で何にもできない存在もしない
夕暮れの中で love me love me
路地裏通りで錆びつく気持ちたち
ほらキミも

何にもできない存在もしない
夕暮れの中を love you love you
SNSから胸キュンさせてよね"
 
私は高校時代「○○大学の学生」になりたかったし「東京都在住」になりたかった。情けない話だけれど、よくある話でもあると思う。


それでも「私はこれからの日本をさらに良くしていく、変えていくメンバーの一員になるんだ」という思いはあった。それは確信にも近かった。
 
まだ判断能力が未熟とされる"未成年"で、せいぜい電車で移動する程度の行動範囲しかない高校生にとっては、人より少しばかり勉強が出来るだけで自分は将来大きなことが出来る人間になれると思いがちなものだ。
 
そうして、それは思い込みではなく真実なのだ。
過ぎ去ったから言えるけれど10代の可能性は無限大だ。
 


「イマドキの子」の歌詞、"東京で何にもできない存在もしない"は、今の10代の子たちにどのように聞こえるのだろうと考える。
 もちろん、きっとそれぞれ感じ方は違うのだろう。 
東京で生まれ育った人々にとっての「東京の片隅」と、地方で生まれ育った人々にとっての「東京の片隅」は違う。
当たり前のようにそこにあるものであったり、夢叶わずうなだれる場所であったりするのだろう。
「東京」の意味は様々だ。
 


いつからか私にとって「東京の片隅」はとても心地が良くなった。
私には"何にもできない存在もしない"状態になれる場所が必要になった。
ひょっとしたら最初からそれを望んでいたのかもしれないとさえ思った。
 
東京にはうんざりするほど沢山の人がいるのにそれでもどんどん知っている顔が増えて、自業自得ではあるがなるべく近寄りたくない場所も出来て、息苦しくなったりもした。
 
一方で「東京の片隅」が心地良いということは少なからず何者かになりつつあることでもあるのだと思う、おそらく。


私は今「東京」にさえ、心地の良い場所がひとつも無くなってしまうことをおそれているし、きっとそれはもう、すぐに訪れるのかもしれないと思ったら怖くて仕方がなくて涙が止まらなくなってしまう。